「教え」はする行為ではなくただの結果

あなたが誰かと話をしていて
こう感じる
「この人の言うことはすごくわかる
 たくさん発見がある
 たくさん気づきがある
 今日この人と話せて本当に良かった」

そして面白いことに
相手も全く同じことを
感じていたりします

これでいいんです
これがいいんです

お互いに
「私が教えてあげよう」と思っていない
邪魔な慢心や虚栄やマウント取りがない
お互いに
「有用なことを教えてもらおう」と思っていない
余計な期待や打算や目論見が全く無い
だからこういう会話が成立します

人と人との関係性は
「影響を与える」「影響を受ける」ではありません
ただそこに相互に働く影響があるだけです
「共感」とは貰うものではありません
ただそこに二人で共有する共感があるだけです

そして何より
あなたの知りたい「正解」なんて
あなた自身の中にしかありません
だから「発見」なんです
だから「気づき」なんです

あなたとその人は
全く足を止めてなかったことがわかりますか
あなたはあなたでむこうへ超高速で前進したまま
その人はその人であっちへ超高速で進んだままです

その状態のままお互いへの良い影響が発生した
ただそれだけです
お互いにとっての「教え」がそこに生まれただけです

難しい話ではありません
「教えよう」とか
「教わろう」とかが
いらないんです
そんな上下関係が
マウント取りが
不要なんです
邪魔なんです
足枷なんです
教えようとするからダメなんです


講演会や本なんてものでも
それがあなたの中にある正解への
「気づき」となり「発見」となり
ヒントとなる事は確かにあります

でもそんなヒントは動いていない不良債権です
とっくに有効期限の切れた薬です
その正体は
教えたがり病にとりつかれた講師が仕掛けた
足を刈る罠です
そいつの頭の良さを証明させるための
やたらと複雑な機構の巨大なトラばさみです
とっくに死んでいるその本の著者が
糞尿のようにまき散らしていった自己顕示欲です
「私がたくさんの人間を教え導く」
「私が世界を変える」
そんな死臭の漂う強迫観念です

そんなヒントをもらうために
あなたはわざわざそこで足を止めなければなりません
そこが決定的に違うのです

「あなたの足を止める本」と「止めない本」が
あるのではありません
程度の差があるだけで
すべての本はあなたの足を止めます
中には
「やさしい語り口で」
「雑談を続けたあとふと思いついたように」
「ふわふわしたポエムの形で」
そうやってあなたの足止めを狙ってきます
あなたの足を止めることが
本というものの役割なのです
本とは「教える」ものですから

まるで自分が神にでもなったような
そんな歪みまくった善意に
捕まらないでください